「聖徳太子」という人物はいなかった?|第98回世見深掘り

世見深堀り

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2025/2/20

「聖徳太子」という人物はいなかった?|第98回世見深掘り

月刊ムー制作担当者が、世見を独自の視点で探究する会員限定特別コラム「世見深掘り」。

第98回は、2025年2月15日の世見「聖徳太子の謎」に書かれている内容を深掘りします。

緑色の文字は「世見」からの引用です。

古代の飛鳥地方は凄く狭かったといいます。
南北3km、東西約700mの小さな盆地が飛鳥でした。

飛鳥地方というと、「奈良県の明日香村あたりよね?」と、私なんぞはフンワリと思ってしまうのですが、古代において厳密に「飛鳥」と呼ばれていたのは、飛鳥寺と飛鳥時代に宮殿があった場所だけだそうです。

面積までは調べがつきませんでしたが、照子さんが書いているように、かなり狭かったと推測できます。

飛鳥時代は、元明天皇が平城京に遷都するまでの期間をいいます。
「推古元年」といえば、日本初の女帝として推古天皇が即位したのが一番の出来事でしょう。
又、聖徳太子が摂政に任じられた年でもあります。

飛鳥時代は、推古天皇が豊浦宮で即位した593年から、元明天皇が平城京に遷都した710年までを指すという見方が一般的なようです(それ以外の区分もあり)。

『日本書紀』によれば推古天皇は、即位した年に、甥である厩戸皇子(聖徳太子)を摂政として国政を委ねました。

法隆寺が建立されたのも推古天皇時代です。
でもね、「聖徳太子は存在したか」の謎が未だに明かされずにいます。

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